昭和49年03月05日 朝の御理解



 御神訓 一、「要心は前から、倒れぬ内の杖ぞ。」

 諺にも同んなじ様な事がありますね、倒れぬ先に杖は付いておけと云う訳です。何時までも有ると思うな親と金、無いと思うな運と災難。と云った様な詩が御座います、確かに何時までも、有ると思うてはならぬのが親と金である、だから金も大事に、使はせて貰はねばならない、使うだけではない、使うたらそれが増る工夫もしておかなければならない。親も確かに何時までもあると思うてはならない。
 何時どう言う事になるやら解らない、親孝行せにゃならん、親に喜ばせとかにゃならん、後から後悔する様な事があっちゃならん、とにかく生前生きとる間に、大事にしとかにゃならん、云うてはおるけれども、実際は大事にしては居ない。親孝行してない親に喜んで貰う様な事は、確かに思ゃおるけれど、なかなか実行に移さない。私は本当にこれは金の場合だって親の場合だってそうです、本当にあの金を貯めて行く人は、有る時にそれを大変に大事にするね。
 そしてちゃんと利殖の事も考えておる、そういう人であって私は金に好かれる人、言うならば金を大事にするから、また金からも大事にされると云う風に思います。無くなってしまってから、さああっちこっち借り廻らんならん、親が無くなってからほんにあれもしてやっときゃ良かった、是もしてやっときゃよかったと云う、所謂後の祭りである。今日の倒れぬ内の杖ぞと言う事、ちょっと意味が違うかも知れませんけれどもね、私はもう本当に思うた事を私は実行すると云う事が、実意丁寧神信心だと思うですね。
 私は今度親教会の報徳祭に参拝のおかげを頂いてから、最後に若先生の御挨拶がありました、御挨拶と云うよりも、まぁお説教半ばお説教でした、今度親教会の八十年の記念祭にまぁ打ち込んで居られる様子、又はこういう項目を設けて、愈々その記念祭に取り組もうと云った様なお話をなさいました、そらぁもう大変な取り組み、昨日その会議が何時もあってる、此処から幹三郎が出席させて貰ってるんですけれども。
 御用奉仕要員て、こんな厚いずうーとその組織が出来て、言わば御用分担が出来けてる、大変な事だな返って難しかごとある感じがするんですけど。そういう親先生が久留米の教会長を兼務しとられますから、そー言うあれもあって三井教会でも大変な意気込みで、皆さん今度参拝の勧誘もなさっとられました。合楽でも段々おかげを頂かんならんと思うのですけども。そのその発表をなさるお話をなさる、御挨拶をなさるのがもう堂々たるお話でした、私は最近もう変られたな、と思はせて頂いとりましたが。
 あのうお話の内容はともかくとして、お話の整然としたお話、しかも言いたい事は充分言われての挨拶でありお話でありました。私は何かそれを聞きよったら有り難ぁくなりましてね、もう親先生ももう安心と云う様な気がするんですよ、ですからあのうその御挨拶頂き終わってから神様にその事の御礼の挨拶を本当にまあ段々立派に生長して居られると言う事を有り難いと思うて御礼を申さして貰ったら、御心願に教衣を頂いた、あのお説教の時に着る装束ですね。
 黒いははぁもう是程しのお話が出来られる様になったのだから、もう教衣をお付けにならなければいけない、もうお着けなさる資格が出来なさったと、私はすぐ感じました。ね。それで私はあのう帰ってからすぐあのう丁度京都の高橋と云う装束やが、このあれと云うて来とりましたから、あのう昨日早速幹三郎に着物の身丈の寸法を云うてやって、それをすぐ注文に出そうと思うて、所謂実行に移す訳です、私がおかげを頂くと云うのはね、此処が皆さんと違うごたるです。ね。
 例えばならお金を例えば大事にすると言う事も、親も本当に大切にして、何時どちらが先になるか解りませんけど、何時別れても後悔のない様にしておくと云うね、例えばなら、ああー若先生も話が上手になんなさったと、神様にお礼と言う事になるでしょう、ならお礼を只申し上げただけじゃない、それにはもう次には私は、教衣を注文しょうと云う気持ちが起こっとるです。
 そして昨日早速幹三郎にあのうメモをして忘れん様に、明日若先生の着物の身丈の寸法を聞いて来い、そしてもう今日は注文すると、言う様にですね、私はあのう倒れぬ前のと云う、倒れんで済むおかげを頂く為の、私は是は要心と言う言葉では当てはまらないかも知れないけれども、是ならば私は倒れんで済む。いよいよ繁昌の一途と云うか、おかげの一途を辿るだけだと思うですね、はぁ思とったばってんとうとう出来んじゃったと、後の祭りではですんね。所謂倒れてしもうてからではいかん。
 と云うてなら倒れたら倒れたでです、そこから道は開けますけれども、私はね難を受けてそして其処からまた良い信心が出来る、と言う事も有り難いですけれども、例えば最後にあります様にね、何時までも有ると思うな親と金、無いと思うな運と災難、と云うその勿論運も何時どう云う運が転がり込んで来るか解りません。又同時に何時災難が起こるか解りません、人間の持っとる運命と言う物はです、何時どういう変化をするか、日々変化をしとる訳ですそう言うたら。
 今日も何も無かった平穏無事だったというておっても、夜夜中何時どう言う事が起こるか解らん。此の度の古賀さんの所の火事なんかもそうですね、是はもう古賀さんが受けねばならない一つの運命にあるのです、けどその運命を変えるとかその災難が掛かって来る筈の災難を、抜けられるとか、是は信心による事ですけども、運命を変える程しの災難が掛かって来とる災難を祓う程しの信心と言うのは、只拝みよります、参りよりますだけ位の事じゃ出来んです。ね。
 その時その時をお願いをしておかげを受ける事は出来ますよ、けれどもねその自分がねもう行き詰まりと云う運命の人が反対に行き詰まる所か、開けると云う様なおかげを頂くと言う事は、只拝みよります参りよりますと、言った様な事では頂かれないです。矢張り信心の力信心の徳を受けなければ出来ないです、昨日古賀さんお礼に出て参りましてから、ほんに親先生今までの信心の間違っておった事に気が付きましたと、もう是からは一つ本当の信心を目指さして頂くというお届けを致しました。
 もう本当に所謂丸焼け、もうそれこそ一物も出す事が出来ない程しの事だったけれども、丁度その時に自分が、帰り合せたと言う事、だからすぐに合楽教会に電話帳を繰るけれども、その中々急いどる時には、解らんそれで自分が行って、その合楽教会の電話を、忘れとる皆んながね、それで電話をかけてから、只今私共の方は、あのーま、火事になっとりますと、けれども周囲が密接してますから、類焼致しません様にお願いして下さい、と云うそれだけの電話であった。
 だからお願いをしたそれだけのおかげを頂いとるでしょうか、皆んなお見舞いに行って帰って来る者がちょっとあれだけの、あれだけの物が焼けてしもうとるのに、もうひっつきべったりの上に三方がコの字型に家がひっ付いとるです、しかも焚き付けのごたる家ばっかりです周囲は昔の古い家でね、それに類焼をしてないと言う事は、本当にお願いしたからおかげを頂いた。そのまま火事が火が揺れる位な風があったそうです、お取り次ぎを頂いたらね火が真っ直ぐ上に昇る様に風が無くなったそうです、
 もうこゃ本当にお願い通りの言わばおかげを頂いて有り難いと言う事と同時にです、所謂倒れる前の杖ぞと云うその信心が出来ていなかった事を、真から御詫びをして是からは、本当の信心をさして頂きますと云うとります。倒れる前の杖を付いてなかった、只お願いをするおかげを頂くと云うその、天地が自由になる程しのおかげが頂かれるのですよ皆さん、けれどもんなら、そういう例えば災難が掛かって来ておるなら、そういう災難を抜ける程しのと云うのは、私は只参りよってます。
 拝みよりますと云った様な事では出来ないと思います。丁度その後に田中さんが参って見えましてそこの、本当ですほんの先日でしたけれども、あちらの車であのう便乗さして頂いて久留米に行きました、そしたら古賀さんの云はっしゃる事が、田中さん信心もっさ程々にしとかにゃいかんばいと、私はそれを聞いてからねほんとに後でしたから、先に聞いとればそれを云うて聞かせるとこつじゃったばってん、あんたがそげな心掛けじゃけん出けんとても今度でも、じゃけん寒修行の時何べん云うたじゃ知れん。
 それがずうっと昨日その妹にですね、自分が云っとりましたが、もう親先生のお夢を頂き続けちゃったって、それで寒修行に参りにいかんばいと家内と云いながらとうとう今度はお参り出来なかった、矢張り災難が掛かって来るとのを避け切らんとですね矢張り。こりゃどうぞおかげ頂いて私はね、程々にせにゃんと云った様な。例えばね菊栄会の幹部の人達が言う事ですけども、打ち込んだら打ち込む程、悪い事が起こって来ると言った様な事を云うですね。成程そういう場合もありますよね。
 言うならば廻りの取払い、いうならばこう上澄みしている水が掻き混ぜられる様なものね。ですから只ほんなおかげを頂くだけに、なら確かに程々の信心が良かつかも知れません、けれどもお徳を頂くとかあの世に持って行くとか、この世に残しておくとか、力を頂くとかは程ほどの信心じゃ、おかげもやっぱり程々です、しかもおかげの世界だけです。昨夜文男さんが十二時頃だったでしょうか。ひょっこり私の部屋にやって来ましたもん、ねえごっじゃったかと云うたら古賀さん方にお見舞いにと。
 こげん遅うからと云うて笑った事でしたが、皆んなが行ったけど自分が洩れていた、のでまぁ行った。それも大変もうあの喜んで居る訳じゃなかろうばってん、元気な心でね信心をやり直さにゃと言うてましたが、そればってん考えて見りゃ考えて見る程おかげ頂いとった、それでもう無一物で何も彼も焼けとったけれども、現金と重要書類と実印だけは実印も側たんだけは焼けてしもうとるけれどもそれだけがあったそうです。
 と言う様な話を昨夜しておりましたがね、私は思うた本当にこの人達がこうやって、さあ同じ菊栄会の信心友達としてお見舞いには行く皆んな、私は本当にあの、一々そうじゃったのそれは喜んだろうと、私がお礼を云いたいごとあるんね、けれどもなら古賀新二さんの、是からの信心、是からの再興の為の言うなら新たな建設、昨日古賀さんが云うとります。本当に親先生無一物ですから、是から頂いたのが。
 お金で言うならば本当の浄財神様の、本当のおかげで今度は頂くのだと云う意気を、見せておりますけどもですねそういう大変な、私は難儀に当った時ですそしたら丁度あのう文男さんが来た時、テレビを私がまだ見よりましたそしたら、丁度その何かお芝居でですね、丸焼けになって居る焼けた柱がこうこう立っとるそう言う状景、親先生丁度古賀さん方が、この通りですよとち云います。
 ゆうべ夜半から段々おしめりがあったり、今日の大分おしめりがあっておる、何かそしたらねもう淋しいやら哀しいやら、もう本当に火事ち云はれた時にはすっきりとおかげを頂いたと云う気だったがしたですけども、あのそれを焼け跡に雨が降りよる、あれを思うたら何か哀しうなってね、私そりゃ勿論他所の家を借りとるから、雨に濡れておる事もないだろうけれども、焼け跡に雨の降っとる状景を思うたら、何かこう何とも云い知れぬその、悲しさを今朝から覚えたんですけれどもです。
 皆さんどうでしょうね、はらぁ古賀さん所が丸焼けになられたげなが、どげな風にしとんなはるじゃろうかと、それを私しゃ神様を皆さんは信じているのだろうか、信じて居ないのだろうかと、私は疑いたくなるですね、幾らお見舞いに、私もお見舞いに行ったと云うて此処に来れば、正直お礼を言いたい感じがします、けれどもですね、なら古賀さんの事にお初穂ども奉ってお願いをしょうと、云う気がどうして起らんのだろうかと、皆さんもやっぱり人情は使いよんなさる。
 例えば若先生の話を聞きながら、ああ若先生お話しが上手になられたなあと、お礼を申し上げる心持ちは出来た、皆さんも古賀さん所の話を聞いて、さあお見舞いに行こうと云う位じゃから、はあーー気の毒な事じゃった、本当にまあー是からおかげ頂きなさらにゃんと思いなさるじゃろうと思う、思うただけで何になるか、見舞いに行った所で何になるか、本当に是から神様のおかげを古賀さんが頂かなければならん、ならです私は本当に古賀さん一家の為に祈らせて貰うと云う。
 祈るじゃない形に表はしてですね、祈らなければ私は信心じゃないと思うですね、それはなら若先生の話を聞いて、はあー上手になんなさった有り難いな、親先生ももう安心だと、その心を神様にお礼を云う心はある、それだけじゃー詰らんですね、思うたら思うただけの形に表はされてこそ、初めて私は神様が受けて下さるね、云うならば力が頂けると、云うのはそれから先の事だと私は思うです。ね。皆さんの中にもです、只お願いのある時だけ一生懸命参るけれどもね。
 所謂皆さんの心の中にです、本なごて信心は程々しとかにゃの、と言う物がもしあるとするなら、一掃されなければいかんです、でなければ合楽に通う値打ちがないです。昨日神愛会ですから、皆先生方集まって色々まあ話をさせて頂いた事ですけどもです、合楽で今力を頂く徳を受ける、道をこの様にはっきり教えて頂くと言う事です、昨日此処から末永先生と公子さんと、御本部の入殿で御座いましたから参りました、帰って参りました、昨日そのまあー発表をしてました。
 もう此の度はもう何か話せば合楽、何かを話せば和賀心時代、何かを話せば、おかげの泉の話題で持ち切っとったと云う事です、講師の先生が今度どうでも和賀心時代を点訳したい盲人が読まれれる様に点訳したいから、あの書物を一冊頂いて呉れと云う相談を受けて来たと云ってます。おかげの泉をです。いつかのおかげの泉の中に、あんたん所の親先生が少なくとも十遍は読めと云はれたけども、そりゃオーバーでしょうけれども、私は月に何百ぺん読みよると、言う先生が居ったそうです。
 是は昨日末永さんの発表です、そして色々解らない所、何時あんた方の親先生がこう言う事を云はれる、こう言う言葉を使はれる、その筑後辨の意味の解らん所が大分あるごたる風ですもん、是はどういう意味の是はどういう意味のと、やっぱ註を入れとかにゃいけないと思うです。私がこちらの言葉丸出して云うものじゃけん、意味が解らんらしいですね、兎に角はあぁそげな所を求められる事は有り難いな、楽しいなと私が言った事でしたけども私が云はうとする、その核心に触れて来ると解らなくなる。
 解らない所を説明を末永さんに求めて、是はどういう意味なのかと云うて聞いとるですね、二日間のその入殿の中に何か話が出ると、合楽の先生の話が出る。和賀心時代の方の話がでるおかげの泉の話がでる、もう本当に此の度は合楽の話で持ち切っとりました、今度は安武君が一緒でしたからもう大変雄弁ですからね、本郷の若先生がもうそれこそ余す所なく、合楽の事聞かれると僕は黙っとりました、もう安武君が話してくれたと云った様に話してましたけどもね。私共は日々言わば信心の稽古をさせて貰いね。
 昨日の私が神愛会でも、あのう皆も云いまた話しました事ですけどもです、今合楽で力を受けたい徳を受けたいならばです、その道はどげな信心をすればと皆が思いますけども、其処ん所のヒントを与えて下さる、又は教えて頂けるこんなに言うならば噛んで含める様に、その道を今の合楽程明らかにしておる所はない。今こそ頂いとかねばならんと云う様な話で御座いましたがね、只おかげの世界ならばです、今云う様にどうぞ程々にでも良い訳です、まさかの時にさあ自分の方が丸焼けしよる。
 その密接してるその家に移らん様にとお願いすればです、なら移らんで澄む程しのおかげを頂いておるじゃないですか。それをおかげの世界けれどもなら程々にと言った様な信心を考えておる所に、そう云う災難を除けられなかった元がある事が解るでしょうが、災難を除けれる程しの運命が新たに変わる程しのおかげを頂く為にはです。所謂そう言う事になる前の杖が大事なのです倒れる前の杖なのです、それを私は今日はね何時までもあると思うな親と金、無いと思うな運と災難と言った様な事を聞いて頂いた話ですね。
   どうぞ。